剛夕作品探求にご協力いただいている「くだん書房」様が取り持つご縁で『貸本マンガ史研究』という雑誌に拙稿を掲載していただきました。題名はちょっとばかり恥ずかしいのですがとても気に入っています。もう遥か(?)遠くになった記憶を呼び起こしての内容ですので少々の年代の前後はお許しください。当時の時代背景と、風かをるの剛夕先生に対する気持ちが少しでも伝わったら幸せです。
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【貸本マンガ史研究 季刊12】
編集・貸本マンガ史研究会 2003年4月28日発行 定価800円

恋尽小島剛夕少女-胸キュンの貸本屋さん時代
「貸本屋さん」、その言葉を知ったのは、いくつのときだったろうか。昭和24(1949)年、静岡で生まれた私は、父の仕事の関係で二歳のときに上京して、江東区(深川)森下町という下町に住んでいた。表通りは商店街、そこから一歩入った住宅街、とはいってもどこの家も家内工業を営みそれなりの人を使っているというような、いわば地元に根を下ろした自営業が多いような町だった。
両親は若くして結婚し、三人の子どもを抱えて生活は楽ではなかった。私が小学校に上がるころにも、当然のごとくテレビなし、電話なし、洗濯機なしのないない尽くしであった。それどころか水道は共同の外水道。火は七輪で起こし、練炭や豆炭をつかって煮炊きしていた。冬の暖房は火鉢のみ。夜は瀬戸物でできた湯たんぽを足の先に置いて寝ていた。そのとき、足に作ったやけどの跡が未だに残っている。
話は本のことだ。本といえば借りるものと決まっていた。休みともなれば図書館に入り浸り、子どもが読める範囲の本は読みまくり、借りまくった。小学校の夏休み40日間あまり、図書館に皆勤した子どもなどそういなかったのではないだろうか。書店で新刊を買うなどという行為そのものが思考からは欠落していた(先立つものがないのだからあたりまえだが・・・・・・。)仲のよい友だちの家に「少年少女世界名作全集」が揃っているのを知ると押しかけていって、一冊はその場で読み、必ず一冊借りて帰ってあっという間に読破してしまった。その友人の父親が、「いったいだれのために買った本か・・・・・・。」と嘆いていたという話は後に知った。
しかしまるっきり新刊本と縁がなかったわけではない。父が公務員であったため、勤め先の購買部で毎月買ってきてくれた唯一の本が小学館の学年誌『小学○年生』。毎回ついてくる付録がとても楽しみであった。ハサミと糊があれば組み立てられるようになっていて、着せ替え人形など大事にいつまでもしまっておいたものだ。しかし複雑な組み立て式キットなどは、父が必ずといってよいほど子どもたちから取り上げて作っていた。じっさい、父は手先が器用で驚くほど上手になんでも作り上げてくれた。
いまでも覚えているのが幻灯機。スクリーンがわりの白い敷布に画像が映ったときは、兄妹三人で歓声をあげたものだ。そういえば、絵を描くことも非常にうまく、娘が言うのもなんだが、当時の山川惣治の「サピン」(昭和三〇年頃・『小学三年生』連載)、高橋真琴のカラー口絵など驚くほどそっくりに描いてくれたものだった。それらが、後年、私が漫画家を志す一因になったことは言うまでもない。
そんな生活環境の中、小学四~五年生のころ、学校へ通う道すがら小さな店を発見した。看板に「みゝずく文庫」とあった。ランドセルを背負いながら中をのぞくと、小柄な人のよさそうなおばさんが一人で店番をしている。いちおうおばさんと書いたが、まだ小さかった私には髪をヒッ詰めにして後ろでまとめ、いつも白い割烹着を着ている姿からおばちゃん、というイメージが強い。薄暗い店内はとても狭かったが、なによりも胸が高鳴ったのは、図書館では決して見ることのできない本が作り付けの本棚に天井付近まで整然と並んでいることであった!(当時の私には新刊本屋さんの記憶がない!)
知らず知らず手がガラス戸にかかり、中へ入っていた。この瞬間、私は貸本マンガの虜になったといっても過言ではないだろう。おばさんはあたりまえのように言った。「本が借りたいのならお金と米殻通帳持ってきてね。」
「借りることができるんだ!」目の前がパッと明るくなった。と、同時に「米殻通帳」で不安になった。ひとさまの家と比べるわけではないが、我家にはあまりに物がないということだけは子ども心に理解していたからだ。それでもランドセルをガチャガチャいわせて家に駆け込み、母をつかまえて聞いた。「もしかして家に米殻通帳ってある?」だまって差し出された米殻通帳なるものが、その時、燦然と輝いて見えたといったら言い過ぎであろうか。保証金はどうやらなかったようだ。(現在同居している舅も貸本屋通いをした人で、場所は江戸川区だが、やはり保証金はなかったということだ。)
<つづく>